こんにちは、カウンセリングルームほほえみの森口です。
御覧いただきありがとうございます。
評価し判定する習慣
生きていると、評価されることが多いです。
学校でも、仕事でも、人としても・・
妻としてとか、母としてとか、いろいろな場面で。
幼少期の生育環境によるアタッチメント(愛着)が
どのように形成されたか?ということも、
関係しているのだと思います。
経験と、それをどう感じたか?により、
評価の基準が自分の中にどんどん擦り込まれていき、
自分でも自分のことを常に評価する習慣がついてしまったり。
それは、特に評価が必要ないような場面でも発動するようになっていく。
それはそれは無意識に・・
・正解か不正解か
・合ってるか間違ってるか
・どちらが上でどちらが下か
・勝ちか負けか
・優れているか劣っているか
・善か悪か(どちらが悪いのか)
・出来る人か出来ない人か
・価値があるか無いか
などなど・・
挙げればきりがないけれど、
両極にあるもののどちらかに決めたくなる。
決めなくて良いものに対しても。
もちろん善悪があるものだってあります。
でも、良いも悪いもないものだってたくさんあるのだと思います。
人は今までの経験、そこから学んだものにより、
ジャッジする習慣がついている可能性があります。
「よーし!ジャッジするぞ!」とか、
「どちらかに決めるぞ!」などと意識しているわけではなく、
知らないうちに、自分の中で評価して分けていくという感じ。
例えば、
パートナーとケンカしたら、
どちらが悪いか決定戦みたいな。
これもまた、善悪が発生する理由もあれば、
無いものもあると思うけれど、
自分の考えが正しいと思っていると、いつでも相手が悪になるでしょう。
勝ち組という言葉があるくらい、
勝ちか負けかにこだわってしまうことも。
何と戦っているのだろう?
戦い続けることはとても消耗して疲れてしまいます。
そして、何をもって勝ちとしているのか?
人によって比べているものも違うのかもしれません。
収入?職業?地位や名誉?
住んでいる場所?家の大きさ?
友達が多いかどうか?
パートナーがいるかどうか?
パートナーがどんな人か?
それとも、目に見えないもの?
幸せそうだ。とか、いつも笑顔で楽しそう。とか?
勝ちの定義って何だろう? 人によって違う曖昧なもの・・
絶対的なものは無いのかもしれません。
出来る人か出来ない人か?というものは、
「人」というより、出来ない「事」があるということかも。
出来る事も出来ない事も
誰にでも両方あって、
ここは得意で出来るけど、ここは苦手で出来ない。
両方あるのが自然だし、両方あっていいと思うので、
何をもって出来る「人」と区分けし、
出来ない「ダメな人」というレッテルが貼られるのか?
評価するとしたら、
出来る事もあるし、出来ない事もある。それ以上でもそれ以下でもない。
という感じでいいのかも。
評価は他者に対してだけではなく、
自分で自分に対して「ダメな人間」というふうに
追いつめていく場合も少なくありません。
そうすると、
自信喪失、無価値観、無力感、孤独感、絶望・・と連鎖していって
どんどん苦しくなります。
ジャッジしなくてもいい場面って
思いのほかたくさんあるような気がします。
行動に対しては善悪が発生する場面もあるけれど、
考えや思い、湧いている感情に対しては、
価値観の「ただの違い」である可能性も。
「自分はそう考えている。その理由は何だろう?」と、
考えを一段深められたらステキだし、
感情については「自分はそう感じている。」というだけのこと。
感情そのものに良いも悪いもないと思うので。
どれも自分に何かを教えてくれる大切な気持ちなので。
ジャッジしていることに気付くことが増えていくだけで、
そこを自覚するだけで、
少し自分の中が変化するかもしれないなと思います。
「あー今、自分の気持ちに対して善悪でジャッジしてたなー。」と。
ジャッジすることが悪ということではなく、
気付いて流していけたら楽という話。
ジャッジしている自分を評価する必要もないと思うのです。
無意識の習慣が自分を創っていくので、
無意識の思考習慣に気付いていけたら、景色が変わるかもしれません。
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心と身体のケアを大切にし、
心身のバランスを整え、
自ら輝く力と、人も自分も大切にする力を。
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